津南町移住への回想
- 2018.09.22
- 移住して田舎暮らし

お結び1 神主さんと母親と私
当時27歳、夫婦二人のダブルインカムノーキッズ、結婚3年目を迎えるも子供はいない。東京に住み、大手ゼネコンの下請けで大きなビルの外構工事(本体以外のお庭部分)の施工図面を書いたり実際の工事現場の進捗状況を管理するお仕事。
もれなく朝6時に家を出て、夜は10時過ぎに帰宅。自宅近くの駅に降り立つと目の前にマクドナルド、セブンイレブン、ミスタードーナッツとくればはしご食い!
太らない理由がない
仕事のストレスで食いまくった挙句、体重は87キロ(現在53キロ)まで膨れ、
時折頭のしびれを感じ少々どっきり。
痩せなければと思いつつも放置。
精神的に疲れている私を気にした母親が心配して気分転換に戸隠に行き素敵な神主さんに会いに行く事を勧めその道筋をつけてくれた。一度お会いした神主さんはその後の自分に唯一影響を与え導いてくれる方となった。
お結び2 神主さんとハウス屋の社長と私
週末の金曜日の夜を迎えるとよほどの理由がない限り、長野県戸隠村に住んでいる神主さんに会いに。
特に自分自身が神道を信仰していたわけではなかった。
戸隠にいる間は神社の境内のお掃除やら雑用をこなし、空いた時間に神主さんと色々なお話をし、日曜の夜には東京へ。
戸隠に行く以外の週末も千葉の別荘に行き海を眺めたり自然を求めてドライブをしたり。
どこか心の奥で自然の中に身を置くことを欲していたように思う。
と言う事はまず第一に田舎で暮らすことの下地の一つはあったと言う事です。
お結び3 ハウス屋の社長と私
その神社での奉仕で出会った一人の男性が津南への移住に大きな役割を果たすことになるとは。
その男性は長野県飯山市で農業用ハウスの施工業者をしている会社の社長。
夫婦二人でハウスを建てていて人手が足りない様な話を聞いていた。
その後も数回、戸隠で顔を合わすこととなり、その間東京での建設のお仕事はストレス満載で精神的に相当追い込まれていたのを覚えている。
一つの大きな現場が終了したのをきっかけに少し長目の休暇を取ることを決断。
同時に飯山のハウス屋の社長に連絡を取り、少しの間手伝いたいとの気持ちを伝えると、住み込みで手伝いに来ることを承諾してくれた。
28歳の5月
早速、荷物を準備し飯山へ。
家を建てるより図面も構造もシンプルで現場を管理するだけで体を動かすことのなかった自分にはとても新鮮で楽しい仕事に思えた
結局、ほんの少しのつもりが、会社を退職し5か月ほど
お世話になることとなった。
単身で飯山に来ていたためその間、妻を何度か飯山に呼び、この後どうするかなどの話をした。
社長からも聞いていたのですが冬は雪が降るためにハウス建ての仕事はなく、社長自身も翌年の営業や事務仕事で時間を持て余すほどで、年間雇用は難しとのこと。
冬場だけの仕事を見つけハウスやを続けるか?東京に戻るか?長野で就職を見つけるか?
お結び4 津南町と農業とユリと私
ハウス屋の仕事現場は当然、農家さんの畑。
施工現場は飯山から40分ほど車で移動した県も変わり新潟県津南町、
そして十日町市。
自身がハウス屋にいる間に建てたハウスは5軒の農家さんで8棟。
栽培作物は全て『カサブランカ』を代表とするユリ農家さん。
初めて目にした農家の現場と農業を経営する農家さん。
ほとんどの農家さんが魚沼のこのエリアでは『魚沼産コシヒカリ』の水稲との複合経営。
10時、3時にする休憩時間には農家の方たちとお話をすることもありました。
初めて出会った農家さんがユリ農家さん。自身の想像していた農業とは少々違いお洒落な印象を受けた。
お結び5 タケオさんと私
5軒の農家さんの内のお一人にとても哲学的で面白い話をして下さる方がいらっしゃった。
後に農業研修と津南町に移住する世話をして下さったタケオさん。
ハウスを建てに行ったのは7月。タケオさん、おばあちゃん、娘の3人のわりに規模の大きな農家さんだった。
タケオさんが田んぼ。娘さんがユリを担当。おばあちゃんはどちらもできるスーパー助っ人。
法人組織ではあるが、一個人と同等の農家さんが経営する規模としては新潟県内でも一二を争うほどの農家さんだった。
そこで栽培された『ソルボンヌ』というユリを東京の妻に送ることにした。
7月20日 自身は未だ後に農家になるとは思いもしていなかった。
お結び6 長男ヒロと私
妻に送ったユリが到着したと言う電話で知った長男ヒロを妻が身ごもったと言う知らせ。
出産予定日が翌年の3月24日。
結婚4年目の事だった。
父親になる責任の重さを感じた。
待望の我が子、嬉しかった。
今や長男も21歳
その後生まれた次男は16歳
お結び7 昼寝で見た夢と私
ハウス建てと同時にいつも考えていたのが10月以降の身の振り方。
昼休みには東京と長野県の求人雑誌を読み、色々と頭を巡らせていた。
ハウス建ての仕事がなくなる時期だけが近づき
結論の出ない日々が只々過ぎていった。
9月2日仕事が休暇で相変わらず休みの日は戸隠にいた。
お昼休みに昼寝を。
夢の中だった。
突然7月に妻に送った『ソルボンヌ』というユリが
目の前で大きく開いていく夢だった。
神社に居たことから何かのお知らせかと思い心に留めることにした。
初めて農業と言う職業の選択が芽生えた瞬間でもあった。
それからと言うもの就職情報誌を見る時間より
圧倒的に農業をして家族と田舎で暮らす生活を想像する時間が増えた。
日に日に将来自身が農業をしていくであろう事だけが
気持ちの中で膨らんでいった。
妻に今後の考えを伝えた。
以前に送ってあったユリが功を奏した。
『あのユリを育てるのでしょ、いいね~』
おなかに子供のいる妻の言葉だった。
両親にも伝えた。
父親は『スキー場が近くにいっぱいあるだろ~』と何故か
自分の趣味のスキーが頻繁に出来ることを喜び、
母親は『そんな雪の多いところで孫が生きていけるわけがない』と言って
泣きながら反対した。
ほんとのところ生まれてくる孫が遠くに行ってしまう事が悲しく泣いたのだろう。どちらにしろ我が子の心配ではなかった。
農業を自身ができる根拠も無し。当然だけど農業の経験など全く無し。
お結び8 ハウス屋の社長と武雄さんと私
自信はあっても根拠がない、まずはハウス屋の社長に相談。
社長も同じことを思っていた。
『タケオさんに話を聞きに行け!』
自分も話を聞くならタケオさん以外には考えられなかった。
10月3日ハウス屋の社長のはからいで稲刈りも落ち着いたタケオさんと話をする運びとなった。
『農業をしたい、津南でユリを作りたい』と言う自信の気持ちは固まっていた。
しかしながら、実のところタケオさんに会って
何を聞いてよういのか良いのかも判らなかった。
だから質問はシンプルだった。
『自分にもユリを作れますか?』
タケオさんの答えもシンプルだった。
『できるよ』
『津南には新規就農と言う制度があるから明日町役場の農政課に行って申請の段取りを聞いてこい。研修先は育てたいものが決まってるからうちに来るように。』
そこからの話は早かった。
晩御飯を食べてからの話だったので帰りが遅くなり
その晩はタケオさんのお宅に泊まらせていただくことになった。
お酒を飲まない二人はキットカットをつまみにカルピスを飲みながら
夜中まで話をした。
『お前がユリを育てることに心配はしてないが、
東京人のお前が津南の雪に耐えられるかがわからない。』
ハウス屋の社長からも聞いていたが津南町は日本の本州一の豪雪地帯だった。
その積雪量は3メートル。さすがに想像がつかなかった。
『冬を経験してからでも本当に農業するのを決めるのは遅くないから
予定がなければ来月引っ越してこないか?
家と冬の仕事は見つけておくから』
東京から数回の電話のやり取りの後
11月15日 妻とともに津南町に引っ越し。
東京に帰るつもりなどないから全ての荷物を持参。
移住生活のスタート!
今宵はここまでにしとこかね!
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